2歳から始めた水泳。一時期、練習が嫌な時期はありながらも、結果的には大学3年生の引退まで19年間続けた。
「水泳が好きだから、体育の先生として高校教諭を目指そう」そう思っていた、高校2年時。
公民(政治経済)の授業で「インフレ・デフレ」という言葉を聞いた。
なんとなく耳に残ったこの言葉、家に帰ってテレビを見ていたら、偶然ニュースキャスターが
「デフレ脱却が・・・」と発言しているのを聞き、初めて公民の授業は生活に直結していることを感じた。
そこから、公民の授業は熱心に聞くようになり、いつの間にか公民の勉強が楽しくなった。
「そうだ、この面白さを生徒に伝えられる先生になりたい。」
その想いで高校2年時の途中から、公民の先生を目指すことにした。
しかし、私の家庭は母子家庭。私立大学に行く余裕は無く、何より私自身が一般入試で決して「国公立大学」に進学できる学力は無かった。そのため、「水泳」でインターハイ出場が条件の推薦入試で、地元の徳島大学へ進学することを目指した。しかし、高校最後のインターハイ予選(四国高校選手権)。インターハイに出場できる「標準記録突破もしくは三位以内」どちらも届かなかった。あと約1秒早ければ、3位に入り、インターハイに出場できていた。
インターハイに行けなかった悔しさは当然あるが、「大学進学どうしよう。」そんな想いで迎えた担任と親との三者面談。当時の担任から、「今、九州で大雨災害がある。災害現場を見て、防災を教えられる先生になりなさい。」その一言で、「防災」を受験の『ネタ』にすることにした。
2週間後には、1人で徳島県から大分県豊後竹田市・熊本県阿蘇市へ向かう。
人生で初めて見た災害現場に呆然としながら、何も分からず必死で、民家に入った泥を掻き出す。
支援に入った民家を離れる時、おばあちゃんから涙ながらに感謝された。
受験のネタ作りで来た事が恥ずかしく、何よりもこのような災害を繰り返してはいけない、何とか防がなければと強く心に思った。
防災が他人事から自分事に変わった。
大学では「防災」に取り組み、防災教育ができる先生になろう。
そう思い、防災先進県の「高知」で、教員免許を取りながら、システムマネジメントを一気に学べる高知工科大学へ進学することを決めた。